◆スコットランドを語る会 活動報告 2018年◆
【第94回】 2018年11月13日(火)18:00〜 参加者11名
発表者:武井勇さん
テ−マ:普段着の貴族=スコットランド編

現職は英国のコスメ会社の日本法人Make It & Co社の役員です。この英国本社は世界最高級のスキンケヤの原料を製造・販売しておりまして、日本では伊勢丹新宿店などで販売をしております。
元の職はLiberty, Brooks Brothers, Hackettなどでいずれもジャパン社の社長をしていました。その時、お会いしたスコットランドの貴族の方々を中心にお話します。

本題に入る前にスコットランドのジョークを発表した中から2つ、常に「ケチ」が話題になります。
1)スコットランドの教会はなぜ丸いのか?「献金の際に隠れられないように丸くなっているのです」
2)新築祝いのパーティーで、アイルランド人はギネスを3本持ってきた。イングランド人はワインを3本持ってきた。スコットランド人は友人を3人連れてきた。
本題に入りまして、3人のスコットランド貴族、コーダー伯爵(Earl of Cawdor)、アラン伯爵(Earl of Arran)、アーガイル公爵(Duke of Argyll)についてお話します。
コーダー伯爵(Earl of Cawdor)
彼はCawdor城の城主です。このお城はShakespeareの戯曲『マクベス』の舞台になったので有名です。はじめてコーダー城へ行ったのは専門店マルイのブランドにLord Cawdorをつけることの交渉の為でした。
はじめに訪問した時のこと、午前中の会議が終わる頃、別荘から電話でランチのご用意が整いました、ということで、ロード・コーダーのベンツで約一時間かかりました。別荘といってもダブルベッドが10組。ご招待された日の夕食直前に、Visitors bookに記帳するのです。私の前の記帳簿にはなんと「徳仁=ナルヒト」と記帳されていまして、皇太子殿下の名前が書かれてありました。その下にタケイのサインを記入致しました。更にその前にはイタリアの女優のソフィア・ローレンが記帳されていました。驚きでした!

食事ではかなりスパイシーな味の料理がでましたが、大変美味しかったんです。実は一週間前に皇太子殿下が来られていましたが、その時に出されたお料理の内容が皇太子のお気に入りでしたので、私にもそのお料理が出されたのです。皇太子殿下が「オカワリ」をしたとのことで、私も「オカワリ」をしたほど美味しいお料理でした! 実は世界中を旅行するコーダー夫人は大のグルメでして、その土地で出会った料理を聞いて、お城の料理人に料理方法を伝えていたのです。コーダー夫人のレパートリーは膨大です。
今でも忘れられないのが、私が12年間の英国での仕事を終えて日本へ帰国する時のことでした。帰国を伝えたところ、フエアウエルパーティーをするので至急コーダー城へ来てほしいとの連絡がありました。その夜のパーティーは圧巻でした!奥様の話ですと、私が着く前日にみずから出かけて敷地内でのShootingでグラウス(雷鳥)を捕獲して、そのグラウスがメインディッシュでした。奥様の話では今夜の料理内容について、捕獲してきたグラウスとかサーモンとか前菜などは全て敷地内で手当したものです。赤ワインだけは例外のフランスボルドーでした。

この経験で大切だったのは話題でした。6時にスタートした食事が終わる頃はいつも12時頃、なんと6時間もの長い会話……!その話題はピンからキリまでで、ピンのほうは政治・経済・国際問題でしたが、キリのほうは全く別の話題、英国で販売されているタブロイド版の中身でした。わたしもロンドンでは普段は電車で通勤していましたが、電車通勤のビジネスマン達は平気でタブロイド版をオオッピラに拡げて読むんです。一面に半分はヌードの写真が……内容もかなり過激な話題でした!この様な話題は後述のDuke of Argyllも同様でした。通常は私もThe TimesとかThe Guardianなどを読んでいましたが、それ以来は私もタブレット版も読むように致しました。さすがに英国のビジネスマンとは違いまして、私は日本人です。もっぱら自宅で読んでいました。このようにキリの話題にも通じていなければ6時間も時間がもたないのは当たり前です。しかし、これが貴族達とのお付き合いには大切だと判りました。貴族といえども所詮男です。
左側、御母堂様とコーダー伯爵夫妻
右側、武井氏の奥様と娘さん
(1985年)
アラン伯爵(Earl of Arran)
はじめはLord Arranの名前をつけたブランドをNew Yorkerが使用することでした。契約交渉の為にLady Arranさんが日本に来られました。アラン夫人の4日間の滞在中に私が東京のご案内を致しました。浅草寺や浜離宮などでした。この時のご案内の内容が良かったので彼女は喜んで帰国されました。
その後、夫のLord Arranさんとはお付き合いが始まりました。当時New Yorkerブランドにはなんらかのアイデンテイテイが必要だったので[New Yorker Tartan]を作ることになりました。商標登録をするにあたって特許庁へ申請したところ、類似パターンがあるとのことで却下されました。そこで私がスコットランド・タータン協会の会長にお願いをして、修正版を作っていだきました。しかし、商標登録の際、なかなかOKの返事が来ませんでした。このことをLord Arranに相談しましたところ、彼からタータン協会の会長にご一報を入れてもらって、最終的に認可ができたのです。今はNew Yorker Tartanの柄が付いた商品が、ニューヨーカーの店内で見ることができます。そして今、私が着用しているのがそのNew Yorker Tartanの製品です。
当時、Lord Arranさんは貴族院において昇格してスコットランド担当の防衛大臣になっていたので、タータン協会の会長にひと押ししてくれましたのもお役に立ったのだと思いました。これらの貴族とロンドンでお会いするときは、貴族用の国会議事堂の中の貴族院議員専用の入り口(Peerage Entrance)が指定されて、時間通りにエントランスでお迎えがあります。ホテルからタクシーで貴族院のPeerage Entrance!と指定すると、ほとんどのタクシーの運チャンが「えつ」と言って驚きの表情です!
アラン伯爵夫妻と武井氏
(1984年)
アーガイル公爵(Duke of Argyll)
アーガイル公爵とは同じCampbell Clanのサー・マルコム・カフーン(Sir Malcom Colquhoun)という男がおりました。マルコムが「実は私の姉がDuke of Argyllの夫人(Duchess of Argyll)だが、一度アーガイル公爵の居城「インバレリー」Inveraray へ行ってみないか?と言われて即答でオーケーに、アーガイル城へ行ってダッチェスにお会いいたしました。その日には現地ではアーガイル公爵もお城の入り口までお迎えに来てくれました。
はじめに訪問した時は初対面でしたので、お城の城壁の外にある公爵所有のホテルに泊まらせていただきました。この一回目の食事会の後でアーガイル城から部屋に戻ってきましたら、テーブルの上にウイスキーが置いてありました。その中を開けてみるとメモがついておりまして、[Dear Mr. Takei, ……with compliment, Duke of Argyll]と書いてありました……大変気が利いた「オモテナシ」でした!

二回目からはインバレリー城に泊まらせていただきました。長い夕食のなかで私が「なぜお城に泊まらせてくれたのか?」と質問をしたら、前回の訪問以来既にダイドーリミテッドについて調べ済みで、伝統のある、いい会社の英国の代表なので信用ができるからだ、と答えがかえってきました。大変光栄でした!
さらにその夜、部屋に戻る時にアーガイル公から注意がありました。私の隣の部屋には重要文化財のような宝物が沢山保管されているということでした。夜中に間違っても隣の部屋のノブに手を付けないようにとのことでした。手をかけるとその部屋の備品は全て地元の警察に連動しているので10分ぐらいにはポリスが来るから気をつけよ、とのことでした。
このアーガイル城にあるこれらの文化財は、当時阪急百貨店で「大英国展」でお借りしたいという阪急の社長からの申し入れがありました。早速アーガイル公爵に電話をしたら二つ返事でスンナリとオーケーでした!使用料そのほかの経費はタダ!ただし、保険はシッカリつけてほしいといわれて一安心でした。

英国議会の貴族院議長の席の赤いジュータンのマットはWool Sacといいまして、羊毛がしっかりと詰められているのです。私がアーガイル公爵に国会議事堂の内部を見せてほしい!とお願いをして参観させていただいた時に見たのがこの議長席Wool Sacでした。いっぺん座ってみたいと申し出たら、運良く当日は議会が休会でドウゾといってくれました。そのマットの大きさは畳二畳くらいの深紅の席でした。そのうえに大の字になって寝転んでみました。英国議会の貴族院議長の席に座るなんて! 英国人はもとより、日本人としても考えられず驚きでした!
アーガイル公爵夫妻と武井氏
(1984年)
お菓子のアーガイル城 大英国展
(阪急百貨店、1985年)
エディンバラ公(Duke of Edinburgh)
最後に、王族ですが、エディンバラ公(Duke of Edinburgh)について少し触れたいと思います。Liberty Japan の社長時代にBuckingham Palaceの横にあるSt James Palaceで行われた晩餐会に招待されました。参加したゲストはすべてRoyalという名前がつく機関、例えば、St Andrews大学の学長とかRoyal College of Artとか芸術・政治・学問に関する機関のヘッドが招待されました。全員が着席する前に、主役のエディンバラ公がゲストに声をかけて、お客様たちが自己紹介をするのです。着席のディナーの冒頭でエディンバラ公のスピーチがありました。さすがにコモンウエルスの長のスピーチでした。格調が高かったです。エディンバラ公がゲストの間を回って、さながら長い付き合いをしていた友人に会ったような雰囲気でした。
エディンバラ公と武井氏
(1997年)
私とスコットランド貴族/著名人とのお付き合いは、仕事を通して個人的な関係から始まりました。スコットランド人をふくめ、普段は仮面をかぶったような英国人でも、ひとたび信用を獲得すれば普通の庶民感覚で「台所まで見せてくれるのです」。それが基本にありまして今回のテーマに「普段着の貴族=スコットランド編」というタイトルをつけた訳です。

以上のようにスコットランドの貴族の方々と話す機会が沢山ありましたが、その後も長く続いている理由は、
1)外向的「外向き……」
2)話題は貴族が相手でも「ピンからキリまで」で対応すること。
3)最も大切なのは[信用]です!!
(文と写真:武井 勇)
武井さんは会場に来られると、帽子から、ジャケット、キルトに至るまで、New Yorker Tartanの服装に着かえられたのにはびっくりしました。うっかりして写真に撮るのを忘れ、そのお姿をご紹介できないのは残念です。
上記の他に、紙面の関係で省略したエピソードがいくつかあります。また、チャールズ皇太子(Prince of Wales)、サー・ショーン・コネリー(Sir Sean Connery)、映画『スター・ウォーズ』の男優ユアン・マグレガー(Ewan McGregor)のご両親のマグレガーご夫妻(Mr & Mrs McGregor)、トランプ米大統領(母親がヘブリディーズ諸島のルイス島出身)、元NATOの総司令官アレグザンダー・ヘイグ (Alexander Haigh) さんについてもお話されました。
(山田 修)
【第93回】 2018年9月13日(木)18:00〜 参加者13名
発表者:阿部陽子さん
テーマ:ジャコバイトの結成と再結成、スコットランドの17世紀と21世紀

私が学生だった1990年代には、エディンバラでは16世紀のスコットランド女王メアリーに関する場所や本に満ちていた。しかし、2010年代のエディンバラではジャコバイト(Jacobite) に関する講座や催し物を目にする。

ジャコバイトとは名誉革命 (Glorious Revolution, 1688-1689)で王位を追われたジェイムズ7世(James VII; イングランドでは2世)とその子孫を支持する人たちのことで、17世紀末から18世紀半ばまで活動していた。Jacobiteはラテン語でJamesを意味する“Jacobus”からきている。1745年のカローデンの戦い(Battle of Culloden)で負けて以降、ジャコバイトの活動は消滅した。しばらくはキルトも禁止された。日本で英文学史に触れていると、ジャコバイトはイングランド政府に反目するテロリストのような印象である。多くの英文学史の本はイングランド側から書かれているからである。スコットランドにおいても、2010年代になるまではそれほど取り沙汰されていなかったように思われる。

ところが、2010年代になってから徐々にジャコバイトのことが注目されて、2017年にはスコットランド国立博物館 (National Museum of Scotland) で「ボニー・プリンス・チャーリーとジャコバイト」(Bonnie Prince Charlie and Jacobites) という展示が行われた。それより少し前に遡ると2014年9月のスコットランド独立に関する国民投票についてのほとんどの新聞や雑誌の記事には、1707年にイングランドがスコットランドを併合したことが書かれている。それに付随して、1707年から18年前に起こり、併合後も38年間続いたジャコバイトの活動が注目されたようである。そして、「もし1745年にカローデンの戦いでジャコバイトが勝っていたら(スコットランドは独立していたであろうに)」と、語られるようになり、人々の「カローデンの戦い」への郷愁を誘っている。カローデンの戦いのノスタルジアは独立運動への大義の一つへとなってゆく。ただし、この、歴史から見た独立運動の大義は気分だけではない。ジャコバイトの乱を追って事象を読み解くと、スコットランドの多くの人々にとって納得がゆかないまま併合され、最後には武力の力で自分たちにとっての王がスコットランドを統治する可能性をも阻止された。2010年代のジャコバイトに関するイベントは、ジャコバイトの再結成とも見えるのである。ただし、それは兵を集めるやり方ではなく、歴史を掘り起こして、知力で主張するのである。

ジャコバイトが結成された17世紀は、スコットランド王であるジェイムズ6世 (James VI) がスコットランドだけでなく、初めてイングランドをも兼任して治めた。正にこの、イングランドをも統治するスコットランド王というのが、スコットランドにとっては明るい兆しのようにも見えた。しかしその後、イングランド、スコットランド、アイルランドに於いて、ピューリタン革命 (Puritan Revolution, 1642-1649; 1640‐60まで含めることもある) と名誉革命が起こる。王が存命中に王の座を退けられるという事象なので「革命」という括りは分かりやすいが、ピューリタン革命はEnglish Civil Warとも表わされていて、実際にはそれぞれの宗派の対立によって起きた内乱があったことによって王が裁判にかけられ処刑された。名誉革命においては、この出来事はスコットランドの一部の人たちにとっては全くGlorious (栄光的)ではなく、むしろその逆であった。スチュアート朝のスコットランド王ジェイムズ7世(イングランドでは2世)が退位させられて、その代わりにプロテスタントのオランダ人ウイリアム (William) が迎え入れられたのである。退位させられたジェイムズ2世自身はカトリックに改宗したことにより王位を追われていた。ジャコバイトは主にカトリックとスコットランド監督派教会の人達だった。そしてイングランド政府側は主にプロテスタントの人達だった。それがゆえに、スコットランド内でもジャコバイトとイングランド政府支持に分裂していた。

1707年併合後、アン女王の後継者として王位に就いたのはドイツ人のジョージ1世 (George I) で英語が話せない王だった。このことは、イングランド内でも疑問視され、王位に反対してジャコバイト側になる人もいた。そして次のジョージ2世 (George II) の時に、かつて退位させられたジェイムズ7世の孫であるボニー・プリンス・チャーリー (Bonnie Prince Charlie) がスコットランド独立宣言を行う。スコットランドがイングランドに併合されていることを「見せかけの連合」と称し、スチュアート家の「王位への正当な権利から王室を排除した」と主張した。そして、ジャコバイト軍とイングランド政府軍がスコットランド北部のカローデンで戦うが、すぐにジャコバイト軍はイングランド軍の最新の兵器で負けてしまう。負傷した兵士をさらにイングランド軍は虐殺した。正義よりも武力で王位が維持されたのである。

2014年の国民投票ではスコットランドは独立しないことになった。しかし2019年のイギリスのEU離脱後にはまたスコットランド独立の動きが出るかもしれない。イギリスがEU離脱後に、スコットランドがイギリスから独立してEUに加入するという目論見である。ジャコバイトの活動は17世紀に終わったが、スコットランド独立の議論と並行してかつてのジャコバイトが注目されている。独立に可能性を見出す人達、独立を支持する人達は、17世紀のように目的のために軍を率いるわけではないが、独立への希望を持つことにおいては、かつて途絶えた夢を再び受け継いでいる。彼らこそが21世紀のジャコバイトである。
(阿部陽子)
【第92回】 2018年7月26日(木)18:00〜 参加者18名
発表者:山ア一男さん
テーマ:スコットランド、アバディーンで剣道を教えて

山ア一男さん(全日本剣道連盟・剣道錬士6段)は日本の企業の社員として、2003年から2007年までアバディーンに赴任され、赴任後すぐに「アバディーン剣道クラブ」を設立し、アバディーン在住の剣道初心者に指導を始めました。2007年の帰国後も継続してアバディーンを訪問して指導を継続しています。社会人の剣道クラブにとどまらず、アバディーン剣道クラブ設立後に組織された「アバディーン大学剣道部」の部員にも指導をしています。
長年に渡ってのアバディーンでの剣道指導と「ジャパン・デー」での剣道デモンストレーションという文化交流に対して、在エディンバラ日本国総領事館から「在外公館表彰」を受けています。

今回、アバディーンと剣道というほかでは聞くことのできないお話を聞かせていただきました。剣道クラブの会場確保の問題、日本人に指導する場合とスコットランド人に指導する場合の違い、剣道具や竹刀の購入方法、日本での剣道武者修行のことなど、幅広いお話でした。

練習会場として、今では使用されていないキリスト教の教会を借りているとのこと。日本の古典的な道場なら上席には神棚があることがありますが、教会なので、「上座に礼」の後で顔を上げるとそこにはキリスト像があり、最初は違和感があったそうです。

指導に関してでは、日本人ならなんとなく通じることでも、スコットランド人にはひとつひとつ説明して納得させる必要があるとのことです。また、日本人は「日本剣道形」の稽古は昇段試験の前にしかやらない人が多いが、スコットランド人は昇段試験前と関係なく、日常的に稽古をしているとのことでした。

剣道具や竹刀は当然ですが入手困難だとのお話でした。イギリスでも通信販売で購入することが可能ですが、やはり日本の武道具店のものが好まれ、山崎さんが会員に依頼されて購入してアバディーンに持っていくこともあるそうです。

3年前にもアバディーン剣道クラブのメンバーを引率して、日本武者修行を行ったことがあり、また今年も実施するとのことです。アバディーン剣道クラブのメンバー10人を連れて、8月17日から26日まで、奈良での稽古と大会参加、京都観光、秋田での稽古、日光観光、そして、東京での稽古と観光という日程です。

山アさんのお話はスコットランドの剣道事情にとどまらず、アバディーンのトーマス・グラバー記念館のことも聴かせていただきました。参加者の中で剣道経験者はふたりだけでしたが、スコットランドと剣道の話を参加者のみなさんが楽しませていただきました。
(中尾正史)
【第91回】 2018年5月17日(木)18:00〜 参加者12名
発表者:大木隆さん
テーマ:ジェームズ・ボンドとスコットランド

現在では英国文化の一つであると言えるクールな情報部員、ジェームズ・ボンド(James Bond)。今回の発表は、007を世界中に知らしめた初代ボンド、ショーン・コネリー(Sir Sean Connery)などの登場した場面とスコットランドのつながりを探ってみました。なお、下の地図上にあるローマ数字は各撮影地を示します。
T. アイリーン・ドナン城(Eilean Donan Castle):MI6(英国情報部)スコットランド本部
第19作『ワ−ルド・イズ・ノット・イナフ』(The World Is Not Enough) に“Castle Thane”として登場。
London にある本部*がテロリストにより爆破され使用不能となったため、一時的に本部をこの城へ移動。
*MI6本部 Albert Embankment , London
U. Glen Etive: A82とDalness村の間(映画のプログラムでは「グレンコウ」と表記)
第23作『スカイフォール』(Skyfall)後半に登場。
敵をおびき出すためにボンドは上司Mを伴い幼少時の実家Skyfallへと向かう。この地で車を降り、Mと会話をする。
V. セント・アンドリューズ・ゴルフ・コース
第3作『ゴールドフィンガー』(Goldfinger)に登場。
西側諸国の金塊を不正に操り大儲けをたくらむ大富豪ゴールドフィンガーと、この名門ゴルフ・コースにおいて接触を図る。イアン・フレミングの原作に登場する旧ソ連の諜報組織である「スメルシュ(SMERSH,СМЕРШ)」 、及び一連の007映画中に登場する犯罪組織「スペクター」とは関連が認められない作品である。このゴルフ場のシーンは8分を越える長さである。
W. Royal Navy Base (英国海軍基地), Clyde
第10作『私を愛したスパイ』(The Spy Who Loved Me)に登場。
核ミサイルを搭載した英国・ソ連両国の原潜が相次いでハイジャックされた。何者かが英国潜水艦レンジャー号の予定航路を記録したフィルムを高値で売ろうと企て、それを試写するためジェームズ・ボンドが招集される。
X. キルマイケル・グラッサリー(Kilmichael Glassary)北東部
第2作『007 危機一発』(From Russia with Love)終盤に登場。
第1作『007は殺しの番号』(Dr. No)で施設を破壊された犯罪組織スペクターは、この借りを返すべく、ボンドを「辱めて殺す」ことを第一義にし、ソ連をも巻き込み一石三鳥を企てる。(1.ボンドの殺害 2.レクター強奪 3.英ソの関係悪化) そしてこの企みを全く知らないロシアの情報局員で美貌のスパイ(ターニャ)に暗号解読機「レクター」を持たせて亡命芝居を打たせてボンドをおびき出す。
イスタンブールのソ連情報部からレクターを奪ったのち、ボンドに夢中となったターニャとレクターを、追手の執拗な攻撃から守り通せるか否かが一番の見せどころとなっている。
Y. ランガ・ハウス、クラオヴ・ヘイブン(Lunga House, Craobh Haven)
X.同様に第2作From Russia with Love終盤に登場。
ヘリを撃墜後、岸壁へ。ここから海路ヴェニスへと逃走を続ける。
Z. クラオヴ・ヘイヴン(Craobh Haven)沖
X.同様に第2作From Russia with Love終盤に登場。
海路ヴェニスへと向かう途中、案の定スペクターの待ち伏せに遭遇。ボート・チェースが始まる。
[. ロッホ・クレイグニッシュ(Loch Craignish)
X.同様に第2作From Russia with Love終盤に登場。
ボンドは銃撃され、燃料が漏れだしたドラム缶を投棄する。その後、減速した敵のボートがその場所を通過する際に、ボンドは照明弾を撃ち、敵のボート群を火だるまにする。
この他、映画関連の人物7名及びSkyfall Train、エジンバラ駅前にあるホテルthe Balmoralについても触れました。
【第90回】 2018年3月17日(木)18:00〜 参加者9名
発表者:佐藤猛郎さん
テーマ:サー・ウォルター・スコットのWaverleyについて

スコットは最初の内、『湖上の美人』などの物語詩の作家として、世に知られていたが、彼が43歳の時、今度は歴史物語の『ウェイヴァリー』を匿名で出版したことによって、これが大変な人気を呼び、19世紀初期のヨーロッパ文学界で大いに評判になり、ゲーテや、トルストイ、プーシュキン、スタンダールなどの文学者に大きな影響を与えた。エディンバラの中央駅の名前が、「エディンバラ駅」ではなくて、「ウェイヴァリー駅」であることも、この人気を物語っているのかも知れない。

ウェイヴァリーというのは、英国の裕福な家庭で育った、文学好きな、夢見る青年で、偶々近くの娘が好きになったのを心配した叔母の配慮で、軍人となり、大尉としてスコットランドに駐屯することになる。偶々休暇を貰って、スコットランドのローランド地方のブラドワーディン男爵の邸を訪れることによって、スコットランドの魅力に目を開き、その後、馬が盗まれるなどの事件から、ハイランドの若い領主ファーガス・マッキーヴァーのもとを訪れて、ますますスコットランドの魅力に触れ、彼の妹のフローラに夢中になるが、彼女の愛は得られない。いつまでも軍隊に復帰しないために、彼が軍務を解かれた頃に、ハイランドを中心に1745年の反乱事件が起こり、親しいハイランドの友人達に誘われて、彼は反乱軍に加わり、その中心となる亡命中のチャールズ王子に、忠節を誓うことになる。

最初は連戦連勝だった反乱軍は、やがて政府軍に圧倒されて、カローデンの原野における敗戦で反乱は終結する。友人の助力によって、ウェイヴァリーは辛うじて反逆の罪を免れて、イングランドに逃げ帰るが、戦いの後、再びスコットランドに戻って、一緒に戦った仲間達の忠節心の崇高さに感動させられる。結局彼はイングランドには戻らず、ブラドワーディン男爵の娘のローズと結婚して、スコットランドに落ち着き、古い歴史を語る美術品に囲まれて、魅力的な思い出に浸るロマンチックな生活を楽しむことになる。
(佐藤猛郎)
佐藤猛郎さんによるWaverleyの翻訳があります。
「ウェイヴァリー(上)(中)(下) あるいは60年前の物語」
【第89回】 2018年1月25日(木)18:00〜 参加者13名
発表者:小沼聡さん
テーマ:フォース橋をめぐる旅日記

スコットランドへは1995年の夏と2016年の夏にそれぞれ10日程度、観光で訪れました。フォース橋は実に21年ぶりの再会だった訳ですが、クィーンズ・フェリーの町も静かで変わらず、周りの静けさと隔絶したフォース橋の雄姿を以前と同じように称えていました。フォース橋と対になって思い出されるのが、1995年の旅です。先ずエジンバラのパブでフォース橋までの道順を地元の人に教えてもらい、翌朝、バスでフォース橋に向いました。バスの中で相席となったご婦人と日本での仕事や家族の事、スコットランドに来た目的などを尋ねられて会話が弾みました。フォース橋を見学に来たことを話すと、その会話を周りの人も聴いていたらしく、運転手が走行中に私を運転席まで呼び、フォース橋を見るための直近の場所でバスを停めてくれると提案してくれました。日本では、他の乗客を差し置いて一個人のためにバスを停車するるような事は考えられない事です。

運転手の粋な計らいに感謝しつつ元の席に戻ると、やにわに、先ほどのご婦人が私の右手を引いて手のひらに50ペンスコインを置き、ラッキー・コインだと言って握らせました。そのコインを大事にもっているようにと、お守りのようなものなのできっと良い事があるとの事でした。やはり外国だ、日本と違うとの思いを痛感して感動したことを憶えています。程なくしてバスは停まり、バスを降りると、私の旅を祝福してくれるかのようにバスの乗客たちが皆笑顔で私に手を振り、バスは更に北へ向って走り去りました。次ぎの瞬間、目の前に朝日を受けた巨大なフォース橋がそびえていました。
『フォース橋と渡邉嘉一』
パリでエッフェル塔が造られた翌年、1890年5月、エジンバラ郊外のフォース湾では、全長2.5km、鋼重5.1万tの巨大な鉄道橋が、8年の工期を要して完成しました。 橋梁形式はドイツ人技師ハインリッヒ・ゲルバーが特許取得したカンチレバー形式。当初から評判の良かったこの橋梁形式は、欧大陸でたちまち普及し、米国にもすぐ伝えられました。しかし、英国ではその採用が遅れ、本格的なカンチレバートラスを架けたのは、フォース橋が初めてです。因みに、日本にこの形式の橋が架けられたのは英国よりも更に遅く、1927年(昭和2年)四国の「穴吹橋」が初めてです。67年間維持管理されたこの橋は、惜しまれつつ1994年(平成4年)に解体されました。

カンチレバーとは片持ち梁であり、これに類した橋の起源は中国とも伝えられています。フォース橋は、径間を延ばすために、橋脚部分のカンチレバーの間に吊桁をヒンジで吊った連続梁です。現代では当たり前のことですが、このような構造は、当時まだ知られていなかったため、フォース橋の設計者は、カンチレバー形式の妥当性についてひっきりなしに説明を求められ、このため彼らは「ヒューマン・モデル」による写真を撮影し説明に使おうと考えました。
写真1
写真2
左の写真はBank of Scotlandが発行したフォース橋の図柄による£20札です(写真1)。この札の£20とあるあたりに「ヒューマン・モデル」も描かれています。それを拡大したものが右の写真です(写真2)。この写真はカンチレバーの原理を端的に伝えるものですが、中央に写る日本人の風貌が魅力的な事もあってか、何時しかフォース橋の設計は極東から知恵を借りたものであるとの誤解が流布されるようになったようです。この中央に写る日本人の名は渡邉嘉一。工部大学校を首席で卒業後、官職を辞して単身グラスゴー大学に入学、学位を取得し、1886年4月卒業する。同年5月にフォース橋の現場で技師として2年間、在籍しました。業務内容に関する明確な記録は不明ですが、土木工学と科学についての学位を取得していることから、設計監理的な仕事、つまり設計図通りに工事がなされているかを監督する業務に就いていたのではないかと思われます。

渡邉嘉一がフォース橋の基本構想に、つまりカンチレバー形式とすることに関係もしくは影響があった、とする説が一時ありましたが、これは明らかに間違いです。フォース橋の工事計画が完成し工事発注されたのは1882年、その頃、嘉一はまだ日本で勉学に励んでおり、異国の地での橋の設計に関与することは物理的に不可能です。
写真3
『フォース橋見学』
フォース橋にしかない構造的特徴で出発前に見るべき目的としていた箇所は、直径3.7mの巨大な円環で構成される圧縮下弦材と高さ105mの大鋼管塔による格点部分です。円環同士の取合いが交点でどう繋がっているのか、しかも大鋼管塔は「ホルバインのふんばり」の異名どおり傾斜しています(写真3)。施工は勿論、設計から加工まで一筋縄では行かなかったことは容易に想像できます。あの円環断面も応力分布によって断面が絞られているし、引張部材やねじれの影響が低い部材にはラチス構造にして重量を軽くしています。一見すると無駄に大きな鋼の橋に見えるが、決してそんな事はありません。では何故そこまで複雑で頑丈な橋を造ることになったのか、明らかに頑丈そうに見える背景には理由がありました。

フォース湾から北へ十数キロ、ダンディーの近くテイ湾に架かるテイ橋という鋳鉄製の単線鉄道橋がフォース橋の施工前に架かっていました。当事のテイ橋は世界最長、その功績で設計者はナイトの爵位を与えられましたが、テイ橋は完成の僅か一年後、スコットランド特有のゲイルと呼ばれる強風に煽られて崩落しました。橋は嵐の夜に列車ごと海に投げ出され75人の死者を出す大惨事となりました。テイ橋の設計者は当初のフォース橋の設計も手がけていましたが、当然の帰結としてフォース橋の事業からも外され、フォース橋は新たな設計者によって見直されることとなりました。このテイ橋の崩落事故は国民の脳裏に深く刻まれ、安全性の問題は何にもまして重要な課題となりました。そして実際に安全であるだけでなく、外見上も安全そうに見える必要があったのです。

フォース橋の設計は新たな挑戦の始まりとなりました。従来の橋は鋳鉄が使われてきましたが、粘りがなく引張に弱いため鋼が初めて用いられ、風の影響も桁違いに大きな風荷重を見込んで設計されました。円環断面は、複雑に作用する曲げ応力に抵抗する手段として優れていますが、煩雑で複雑な加工を要するため何度も試作模型が作られました。

こうして完成したフォース橋は、テイ橋の惨事の教訓を活かして造りあげた偉大なモニュメントとなり、実物を前にして想うことは、フォース橋の関係者がみせる、とどまることを知らない挑戦の姿でした。130年近く前にこれだけの工事が行われたことは実に凄い事だと思います。そして未だに現役で200本/日の列車が通過する頑丈さ。

途方もなく際限の無い仕事を指す英国の諺に「フォース橋にペンキを塗る仕事がある」というものがありますが、130年近くも途方も無いメンテナンスを継続しているのも凄いことです。完成当初は三つ瘤の恐竜とも呼ばれたフォース橋ですが、南北を結ぶ輸送経路として無くてはならない存在であると共に、クィーンズフェリーの町にも愛され続けていることを思わせる壁画を見つけました(写真4)。

フォース鉄道橋の脇ではフォース道路橋が架かり、また新たな道路橋の建設が行われていました。古いものを残しつつも変化している英国。見た目の頑丈さではフォース鉄道橋の方が圧倒的に勝っているように思います。 スクラップ&ビルドなどと言って古いものを安易に壊してしまう日本と整備を続けて使い続ける英国、いろいろと考えることの多い良い旅になりました。
(文と写真:小沼 聡)
写真4

Home
Copyright 2002 The Japan-Scotland Society All right reserved ©