◆第6回 横浜(1)
◆第7回 横浜(2)
◆第8回 横浜(3)
◆第9回 東京(1)
◆第10回 東京(2)

■ 第10回 東京(日本橋から丸の内オフィス街へ) ■

日時:2010年6月17日(木)
参加者:11名
見学場所:貨幣博物館、日銀本店旧館、パソナ本社、三菱一号館 
 10時半、三越日本橋本店三井口集合。梅雨の晴れ間の強い日差しの中を、午後の日銀の見学の前段として日銀金融研究所の付属施設の貨幣博物館の見学に行く。日本の貨幣史を始めとして、世界の貨幣などが実物やレプリカなどおよそ4000点の資料によって分かりやすく展示されていた。日常つかっている貨幣だけに興味深いものが多く、紙幣の偽造防止技術なども説明されており、およそ1時間が短く感じられた。入り口には「3億円」の1万円札での重量と同じ紙の束も置かれてあり実際に持ってみて実感するコーナーもあった。

 昼食後は当日の主目的である、工部大学校第1回卒業生の建築家の辰野金吾の代表作品の1つで国の重要文化財にも指定されている「日銀本店旧館」の見学。日銀の設立初期には大蔵省のお雇い外国人としてアバディーン生まれのA・A・シャンドが日銀など銀行実務の指導、検査に当たっており「日本の近代銀行制度の父」と仰がれている。

 13時半、見学コースの集合場所で修学旅行と思われる生徒の一団等などとともに、案内担当の女性から見学する上での注意を聞く。一般の見学者は10分あまりのビデオで日銀の歴史を見る。ついで1階の旧営業場(銀行窓口)から見学を始める。地下1階の2004年まで108年間使われた米国製の地下金庫を見る。扉の厚さは90Cm、重さは25トン。この金庫は関東大震災でもびくともしなかったとのこと。本物こそ見られなかったが金の延べ板や1万円札の保管状況を見る。

 2階に上がって廊下の壁に展示されている、初代の吉原重俊、四代岩崎弥乃助、七代高橋是清、十六代渋澤敬三など歴代総裁の肖像画を見て回る。資料展示室で昔の行員の制服など、また十五代の結城豊太郎総裁が総裁室として使っていた旧館のシンボルでもあるドームの下の部屋を中から見た。また、当時総裁が実際に使っていた机や椅子が展示されていた。最後に中庭で開設当初馬車で日銀に来たお客の馬のために作られた水飲み場など見て、記念写真を撮る。

 丸の内の三菱一号館へ行く途中で人材派遣会社「パソナ」の呉服橋本社へ立ち寄った。
ここでは田口さんの同級生(茂又さん)がプロジェクトリーダーとして行っている、オフィスに水田や花畑を作り、外壁にバラや落葉樹を植える「アーバンファーム」の活動を30分以上にわたり見せて戴いた

 最後にこれも辰野金吾の代表作であり、現在建設当時の姿に復元工事中の東京駅を左に見ながら丸の内に向かい、今年4月に復元して美術館としてオープンした日本初のオフィスビル街「三菱煉瓦街」の一号館の歴史資料館を見学した。建物の模型や三菱の創始者である岩崎家や関係者に関する資料や当時の調度品が展示されており、この資料館は無料でなおかつ午後7時まで公開されていることもあり、また東京駅に近いという立地条件からこれから多くの見学者が訪れるものと思われる。自由見学後、解散した。

 「三菱煉瓦街」はジョサイア・コンドルと弟子で工部大学校一期生で辰野と同期の曽根達蔵の二人の設計、施工によるものであり、1894年竣工の一号館が40年ぶりにほぼオリジナルどおりに復元したものである。
                                         (安久津 赳)

日銀本社旧館

馬の水飲み

三菱1号館
  東京横浜にスコットランドを探訪する会は
当初計画した目的地を
ほとんどすべて探訪しましたので、
この6月の会をもって終了させていただきます。

 たくさんの方からご協力を頂きました。
 有難うございました。

■ 第9回 東京(白金から小石川へ) ■

日時:2010年5月27日(木)
参加者:8名
見学場所:明治学院歴史資料館、東京都水道歴史館、小石川植物園   
 10時半明治学院大学正門前集合。ヘボン(曾祖父が米国に渡ったスコッツ)は明治学院の礎を築いたひとり。お近くにお住まいのJSS長老の岸さんが歴史資料館見学に参加された。
 歴史資料館は記念館の2階。記念館の前の花壇に「アンネのバラ」が数輪咲いていた。ここ出身の島崎藤村が『桜の実の熟する時』の中で「新しく構内にできた赤煉瓦の建物は、……」と書いた建物。当時は神学部校舎兼図書館。2階には本邦初の和英辞書『和英語林集成』の初版本(1867)、へボン家の紋章や島崎藤村『夜明け前』の原稿など、ゆかりの資料が多く陳列されている。
 隣のウィリアム・インブリー博士(祖父がスコットランドから米国に移住した)の居館インブリー館(国指定重要文化財)およびチャペルは外観のみ。一時間ほど見て、都営地下鉄三田線で白金高輪から水道橋に向かう。岸さんはわざわざ白金高輪駅まで来られ、われわれを見送られる。感謝多々。

 昼食の後、水道橋の東京都水道歴史館を見学。ビデオ案内を見てから、2階に案内されて江戸時代の上水(江戸時代は水道のこと上水といった)、1階に下りて明治以降の水道について1時間ほどのガイド飯島清美さんの説明。徳川家康が江戸入府に当たり家臣に作らせた小石川上水(後の神田上水)が江戸上水の始まりとか。その後玉川上水など5上水が加えられ、江戸の人々の生活を支えてきた(幕府天領の多い武蔵野の新田の用水への配慮からか、八代将軍吉宗のころ4上水が廃止)。さまざまな大きさや形の木樋が継ぎ手により連結され、上水井戸へと給水された。時代劇でよく見る長屋の井戸端風景は、地下水を汲みあげていたのではなく、上水を汲んでいたのだと認識を改める。1階では、コレラ流行のあと、1888年(明21)バルトンが東京市区改正委員会の調査主任として水道改良計画を作成、10年後給水が開始されたこと。見学後、裏にあるバラ園でしばし憩う。

 次に白山に出て、小石川植物園に入り、「メンデルのブドウ」の木、「ニュートンのリンゴ」の木を見る。スコットランドとの関わりは、スコットランド生まれの園芸学者・植物採集家ロバート・フォーチュンがここを訪れたのではないかということ、指紋研究で知られるスコッツ、ヘンリー・フォールズ等が建立した築地訓盲院(1880、明13)は薬草試植園に移ったが、恐らく植物園の南境にあったものと思われることである。
                                            (山田 修)


明治学院歴史記念館

水道歴史館

水道歴史館

小石川植物園
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■ 第8回 横浜(3) ■

日時:2010年4月23日
参加者:9名
見学場所:イタリア山庭園・ブラフ18番館・外交官の家・テニス発祥記念館・外人墓地
      港の見える丘公園・横浜市イギリス館・山手111番館
 石川町駅南口に午前10時に集合、一行は駅前から始まる坂道を登って最初の見学場所であるイタリア山庭園とそれに隣接するブラフ18番館と外交官の家に向う。庭園は明治期(13-19の6年間)のイタリア領事館跡地に1991年完成した。ブラフ18番館は、大正末期に建てられた外国人住宅で、戦後山手カトリック教会司祭館として使用され、移築された。

 外交官の家は、明治43(1910)年に渋谷南平台に建てられた外交官・内田(うちだ)定槌(さだつち)(NY総領事、トルコ大使などを歴任)の私邸で移築後平成9年公開された。国の重要文化財。アメリカン・ビクトリア様式の木造二階建。原設計者は、セントルイス生まれのスコッツ系米人のジェームズ・マクドナルド・ガーディナー(1857-1925)。なお、ブラフ(Bluff)とは絶壁のことでクリフ(Cliff)は海に面した絶壁のこと。
 
 次の山手公園に向う途中の階段(公園の西端、桜道側入口)傍らに、ブラントンの下水道事業を顕彰する近代下水道記念碑を見る。上がり終えてしばらく歩くとテニス発祥記念館に到着する。明治11(1878)年、山手公園で日本初のローンテニスが行なわれ、初のテニスクラブがつくられた。記念館には使われていたラケットが数多く展示されている。付近では大きく成長したヒマラヤスギを見ることができる。

 その後、一旦戻って、フェリス女学院大学、短大・高・中の学舎を見ながら歩く。途中立ち寄ったブラッフ・クリニックには、日本考古学の草分けであり、アイヌ研究で知られる医師マンロー博士が勤務した由縁の銘板が保管されている旨説明を受けるも、梱包を開いて元の状態に戻すのには時間がかかるので、今回見学はパス。

 元町公園を過ぎるとお待たせの山手外国人墓地。ブラック一家(首長ジョン・レデイ(1827-80)は日本初の本格的日本語日刊紙「日新真事誌」を創刊、日本ジャーナリズムの父と称される。長男のヘンリー・ジェームズは「快楽亭ブラック」と称した日本初の碧い目の落語家)とチャールズ・リチャードソン(貿易商、1862年上海から観光旅行に来て生麦事件で落命)の墓は見つけて献花したが、ジョージ・ウオーコップ(工部省灯台寮書記、ブラントンの義兄)、ジョン・マクドナルド(1858-1859年、初代英国公使オルコックと共に来日)とマーシャル・マーティン(貿易商、関東大震災後の横浜復興に尽力、山下公園建設提唱者)の墓は見つけられなかった。
ここで、ランチタイム。港の見える丘公園に隣接するポートヒル横浜ホテルで一同洋食を美味しく頂く。横浜港が眼下に広がっていた。ベイブリッジの夜景は見事だろう。

 ツアーを最後に飾ったのは、横浜市イギリス館(居留地防衛の為の英兵駐屯地に昭和12年に英国総領事の公邸が建てられた。横浜市指定有形文化財)と周辺のバラ園(約80種、1,800株)。英国と横浜市のシンボル・フラワーであるバラの見ごろは5月と9月なので、バラはこれから花が咲く状態だった。そして、山手111番館(東京丸ビルの建設の為に来日した米人建築家ジェイ・ヒル・モーガンが個人の邸宅として大正15(1926)年に設計建立)。近くには神奈川近代文学館と大仏次郎記念館がある。

 本稿を書くにあたっては、稲永丈夫さんが探訪の為に纏められた「ミニガイド」を利用させて頂いた。また、探訪ルートは、「山手西洋館マップ」(ちらし)を石川町駅から元町・中華街まで北上するかたちで巡った。

 「本郷の かねやすまでは 江戸のうち」ならぬ、桜木町駅・関内駅までは立ち寄ることがあったが、石川町駅を降りて山手を訪れたのは上京・入社以来の37年振りだった。ヒルトップには相変わらず異国風の建物が並んでいた。
                                          (井崎 淳一郎)


外交官の家

ブラック家墓所

  リチャードソンの墓

横浜市イギリス館庭園  
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■ 第7回 横浜(2) ■

日 時:2010年3月25日(木) 
見学場所:
リチャード・ヘンリー・ブラントンとジェイムズ・カーチス・ヘボンの足跡・吉田橋
 
 横浜開港から150年、今回は、日本近代化に大きく貢献した二人のスコットランド人、リチャード・ヘンリー・ブラントンと、ジェイムズ・カーチス・ヘボンの足跡を巡る探訪となった。
 明治5年(1872年)東京・横浜(現桜木町近)に鉄道が開業した。その発祥の地、JR根岸線桜木町駅に集合。雨が降り続き冬を思わせる寒さの中、最初の訪問地は横浜指路教会。居合わせた岡部一興氏(教会史学会理事)から当教会の歴史と建物について説明を受けた。「指路」はヘボンの母教会の愛称「Shiloh Church」(メシアの意)からきているそうだ。ヘボン夫妻は1859年に横浜に来着し、数年後居留地39番へ移住。その地にヘボン塾を開校した。ヘボン塾で勉学に励んでいた青年を中心に米人宣教師H・ミールを初代牧師として1890年献堂された。2度の移転後現在地に献堂。震災・戦災に堪えた躯体を信徒の浄財で奇跡と思える復元を図っている。お御堂の祭壇に十字架はなく、周囲の窓は普通の曇りガラスですこぶるシンプル。その分信仰に特に厚いと感じた。

 次にブラントン設計の吉田橋を訪れる。当時運河で船が行き交った所は、現在は首都高速道路となり間断なく車が行き交っていた。欄干は細いX字の連続模様。140余年経てもなお、錦絵に描かれた当時の栄華を思い浮かべるに十分な存在感があった。次に同じブラントンの設計・施工の日本最初の洋式公園、横浜公園を訪れた。公園は往時の面影は殆どない。ブラントンの胸像と彼が手がけた数々の事業の説明板が公園入り口に設置されている。この説明文を読むと改めてブラントンの偉大さを実感する。横浜公園とゾウの鼻地区をダイレクトに結ぶ通りを日本大通りと言い、同じくブラントンが設計した。当初は36メートル幅の立派な道路であったが、震災・戦災にあっても殆ど同じ広さが現在も保たれており、沿道には重要な建物が並でいる。日本大通りを横にそれて日本新聞博物館裏に、グラスゴー製のガス灯、居留地跡から発掘された鋳鉄ガス管とブラントン設計のレンガ作り卵型小下水管が展示されていた。元横浜市下水道局長で新会員の安久津氏より下水道に付いて説明を受ける。

 外航船の受け入れに横浜港が開港されたが貿易の拡大により防波堤を湾曲した形で延長した。その形がゾウの鼻に似ているのでその名が付いたそうだ。その直線部分の延長が現在の大桟橋のもとになる。明治政府は横浜港築港計画をブラントンに依頼し、彼の答申は採用されず、英国人パーマー案が上申され1889年着工、1896年竣工した。その後、改良が加えられ現在の大桟橋となった。
ブラントンは日本の灯台の父(在任中26基の灯台を建設)であると同時に横浜のまちづくりに多大な貢献をして1876年帰国した。帰国後は建築家として活躍、1901年(明治34年)逝去。ロンドンの南、ウエスト・ノーウッド墓地に永久の眠りについている。

 遅い昼食をジャーデイン・マセソン社横浜支社のあった英1番館跡に建つ神奈川県民ホール6階のレストランで摂った後、日本文化の開眼者であるヘボン氏の居宅跡(39番館・現合同地方庁)の石碑を読み、横浜市中土木事務所前の卵形下水管を見て解散した。

 スコットランド探訪の会は今回で7回になるが、探訪の地を訪れて感じることは、如何に多くのお雇い外国人や多くの宣教師等が日本の近代化に大きく貢献したのかということである。その中でイギリス人として束ねられた中で、スコットランド人たちの活躍が特に目立つ。埋もれてしまった彼らスコットランド人に、歴史の舞台に呼び戻し再び光を与え再評価することは私たちの責務と考える。過去のスコットランドの探訪の会に残念ながら参加頂けなかった方々は、是非この報告記を携えてその一部だけでも訪れることをお薦めする。それぞれの探訪先で、スコットランド人は何を考え、何を日本人へ伝えようとしたか、との思いを抱いて頂ければ探訪会を開催した意義を果たせたのだと思う。
                                            (大石 晃士)
 

吉田橋
 
 
リチャード・ヘンリー・ブラントン
 

ヘボン旧宅跡の碑
 
 
卵型下水管
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■ 第6回 横浜(1) ■

日 時:2010年1月28日(木) 
参加者:9名
見学場所:電気の資料館・
生麦事件参考館−生麦事件碑・キリンビール生麦工場

 1月28日、今年初めての探訪の会が行われました。
午前10時30分、JR川崎駅に集合したのは初参加の新会員を入れての9名で、最初の探訪先、東京電力「電気の史料館」へ出迎えのマイクロバスで向かいました。とても立派なビルで、ホールに掲げられたデュフィのパリ万博の壁画のレプリカ「電気の歴史に貢献した100人の科学者」の壁画に驚かされました。私達のお目当ては、工部大学校電気工学教授のエアトン(グラスゴウ大学でケルヴィン卿に師事)の指導で1886年に藤岡市助らが制作した白熱電灯用発電機でしたが、また最初の白熱灯電球の木綿フィラメントや日本最初の送電塔、最初の水力発電所の展示物などにも目を見張りました。このような発電機の発展にはスコットランド人ジェームス・ワットの力が寄与したことも印象に残りました。

 二番目の探訪先は「生麦事件参考館」で、土地の浅海さんが長年にわたって収集した資料の数々を見学し、同時に約1時間に亘って浅海さんの講演ビデオに聞き入りました。1882年、横浜から馬で川崎大師見物に向かった4人の英国人が薩摩の400人からなる大名行列に行き逢い、無礼者として惨殺されたのはスコットランド人商人リチャードソンでした。この事件の賠償金を巡って薩英戦争となりましたが結果的には後年双方が友好関係を結ぶこととなり、明治維新の進展に大きく寄与したことはご承知の通りです。第三の探訪先キリン麦酒生麦工場に向かう途中、この事件の現場に立つ記念碑をみてその昔に思いを馳せたのでした。

 最後の訪問先キリン麦酒は、1870年アメリカ人コープランドが横浜山手に創立したビール製造業をご存知グラバーが譲り受けてジャパン・ブリュワリーとし、その後キリン麦酒に発展したものです。よく整った見学コースを案内されて、あらためてビール醸造と製品化の諸々の過程を学び、最後に出来立ての「スタウト黒ビール」や「一番搾りビール」をご馳走になり、のどを潤しながら次回の横浜での探訪企画を話し合ってご機嫌で散会しました。
(梅津昌彦)



電気の歴史に貢献し・・・


白熱電灯用発電機


生麦事件碑


  生麦事件碑2
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