「スコットランドを語る会」第53回報告

日 時:2012年1月19日(金)午後6時~ 
場 所:うすけぼー南青山店
参加者:20名
発表者:高橋 愛朗さん
題名:「高橋愛光(よしてる)とエディンバラ」

 JSS理事・高橋愛朗さんの大変素晴らしいスピーチがありました。
海外で事業をするとはこういうことなのでしょうか。全内容を紹介いたしますので、じっくりお読みください。

「高橋 愛光とEdinburgh」

 本日は Scotlandへの恩返しの一貫として「日本スコットランド協会」を設立させた私の亡き父 高橋 愛光 とEdinburghと題してお話しをさせて頂きます。稚拙な内容となると思いますが、Scotlandを愛する御心で最後までお付き合い頂けますようにお願い致します。

高橋愛光は 洋酒輸入業界では「あいこうーさん」と親しまれておりました。「あいこうーさん」と言えばOld ParrですのでまずはOld Parr についてです。

 Old Parr は明治の元勲 岩倉具視が欧米視察旅行の際、お土産として英国から持ち帰ったと言われています。それ以来、日本政府の高官の多くがOld Parrの愛飲者となり、吉田茂元首相、田中角栄元首相は特に有名で、元旦の御屠蘇にもOld Parrが用いられたのは業界では有名な話です。Londonの日本大使館でも歴代大使が接客用にOld Parrを用いていました。
 父はOld Parrを通じてScotlandを知ったわけですが、初めてScotlandを訪問したのは、1970年(昭和45年)の9月です。当時、父は神戸にありました輸出入会社に勤めており、海外への輸出商品の船積手配を担当する部署の責任者でした。何故 輸出担当責任者がScotlandを訪問したのか?

エジンバラ・フェスティバルでお神輿担ぎ

 1970年は大阪にて万博博覧会が開催された年です。その当時はまだスコッチウイスキーは輸入枠によって輸入制限を受けており、総輸入量は約30万ケースでした。その輸入の大半はJohnnie Walkerに集中しており、Deluxe第2グループはLorgan, Buchanan Deluxe, Pinch(Dimple)であり、Old Parrはそれより低位置で6,000ケース程度でした。その様な中、万博用には特別輸入枠が設定され、父の勤めていた会社はOld Parrの日本に於けるサブ販売代理店でしたが、通常の4分の1サイズ瓶を1,000円にて販売する計画を立てました。
当初販売予定は1000ケース(4万8千本)でしたが、売上は好調で結果、万博期間中に
3,000ケースを販売しました。これが後日 Deluxe Scotch Whiskyのトップブランドになる Old Parrの飛躍の布石となりました。
 大成功となった4分の1サイズの発案者は 輸入洋酒業界での実力者でした西岡一郎氏ですが、その西岡氏が父をOld Parrの新たな担当者として急遽指名。指名理由は父が神戸2中の後輩と分かったからだそうです。西岡氏のこの指名がなければ父とScotlandの繋がりは無かったかもしれません。

 1970年9月末 父は大阪万博の販売報告 及び日本におけるスコッチウイスキーの将来性を討議する為にEdinburgh市を訪問する事になりました。この訪問は父にとって初めての海外旅行でしたので、西岡氏が全ての準備 ①航空券の手配(割安券の為 座席は一番後ろの席)、②同行者の手配(西岡氏の部下で旅慣れた若手を同行者に)③Londonのヒースロー空港での出迎えのアレンジ等をして下さり父は素晴らしい先輩に感謝、以降 西岡氏は父にとって大恩人となります。 アンカレッジ経由で英国着後 数日間Londonにて体調を整えるというご配慮付きです。父は翌朝、朝食時にホテルの食堂から見た、ハイドパークでの光景,すなわち、数人の紳士淑女が馬に跨って悠々と朝の散歩を楽しんでいたり、多くの鳥達が水辺で餌をついばんでいる平和な光景に海外旅行での最初のカルチャーショックを受けました。それ以来、父は朝食のパンをひとつポケットに忍ばせ、食後の散歩に鳥達と仲良くすることが英国旅行での楽しみの1つになりました。

 数日間Londonで過ごした後、フライング・スコッツマンにてEdinburghのウエーバリー駅を目指しました。当時父は「飲めない、食べられない、喋れない」という海外旅行には不適格な人物でした。「飲めない」とはスコッチウイスキーどころかアルコールは全然駄目で、医者に「少しはお酒を飲むように!」と勧められ、漸くビールをコップ半分くらいは飲めるようになった程度でした。「食べられない」とは洋食が苦手で、薄味で少量ずつ多品種を食べるのが好みでした。「喋れない」、当時は英語も駄目でした。その後は社員全員に英語を必須科目に課す程になりました。因みに引退後はギリシャ語を学んでいました。

 その様な状況下、父はEdinburghで大歓迎を受け、常にOld Parrでの乾杯、有名レストランでの豪華食事会の連続と本人にとっては苦痛の連続だったそうです。会議は無事に終了。その際の内容が高く評価され、後にOld Parrの日本での販売を全面的に任され、総代理店となるオールドパー株式会社を1973 年(昭和48年)10月に設立することになります。
 3重苦でのEdinburgh滞在でしたが、ナショナルパーク内の池に浮かんでいる沢山の水鳥、のんびり草を食んでる羊、そして田園風景に心温めてもらったようです。夜空に浮かびあがるEdinburgh城の峻烈な姿は父をして「スコットランドは第二の故郷」と供述させるようになります。
 Old Parrの好調な販売に伴い、父はスコットランドへの恩返しを考えます。日本に於いては1985年(昭和60年)に日本スコットランド協会を設立しました。設立目的はご存じの通りです。同時期に、より多くの方々にスコットランドを訪問してもらいたい。との思いからEdinburghに旅行代理店 Jascot (Japan Scotlandの略) Travel社を設立(1984年5月設立~2001年9月解散)。そして、日本の食文化を紹介する為に、Edinburghに日本レストランAYEを開店(1985年5月開店~1988年3月閉店)させました。
私はこの Jascot Travelの立上げ と レンストランAYEの開店・運営に携わりました。

エジンバラ・フェスティバルで花笠音頭を披露

 Old Parr株式会社では営業活動の一環として取引関係者の方々をスコットランドへご招待していました。 旅行はOld Parrツアーと称していました。私は19歳の時(1974年)に欠員者の補充として急遽訳もわからず、この旅行に参加する幸運に恵まれました。この旅行が私にとっての最初の海外旅行で スコットランドへの第一歩でした。その後、一度旅行にてスコットランドを訪れ、大学卒業と共に1977年から1年間Old Parr株式会社の海外研修生の3人目としてEbinburghに滞在しました。
 Old ParrツアーのアレンジはLondonに事務所を構えるミキトラベル等の旅行代理店にお願いしていましたが、Scotlandに関しては自分達の方が情報量も多くなってきたため、Londonの旅行代理店のアレンジに満足しなくなってきていました。それならば自分達でアレンジしようとJascot Travelの設立と共に、念願でしたEdinburghでの純和食レストランを自分達で開店しようと父は考え、私がその担当になってしまいました。

 Jascot TravelはEdinburghに長期滞在中の日本人を責任者として、現地の旅行代理店経験者を採用し、スムーズに設立出来ました。1984年当時FAXの手配をするのに、FAX自体を理解してもらうのに一苦労したことを覚えています。今から思えば笑い話ですが、「どうして、電話回線を使って文字を転送出来るのか?」となかなか理解してもらえませんでした。当時は海外とのビジネス上の交信はまだテレックスが主力でした。

 また経理では5ペンスの誤差に対して「問合せの為の電話代の方が5ペンス以上になるから気にしなくて良い!」と会計事務所の責任者から言われた時には「日本では1円の誤差は100万円の誤差の兆候」と教わっていましたので、「何と日本に報告したものか?」と悩みました。何とか日本サイドには商習慣の違いと理解してもらいましたが。
 逆に現地の人に理解してもらうのが困難だったアレンジもありました。日本からの某有名グループ社長のたばこが旅行中に無くなった為、Londonから届く「社長ご指名日本製たばこ」を社長ご一行の滞在するSt.AndrewsのHotelへ届けるというアレンジでした。「たばこ」だけを届けるアレンジです。宅急便なんてありませんでしたので、タクシーの運転手に「日本製たばこ」だけをホテルまで届けてもらいましたが、「運転手からは日本人はクレイジー?」とパブでのジョークに使われたのではないでしょうか。

リー・トレビノとサンディー・ライルと一緒に父、愛光とスピーカー

 日本からのScotch Whisky輸入関係者の通訳依頼に際しては私が通訳として担当し、他社の極秘情報を得たこともありました。 
 またゴルフ場のアレンジ依頼と共に、プレイヤーが一人の場合には私が同伴プレイをしたこともあり、帰国後 その方とは仕事の関係が出来、役立ったこともありました。地元メンバーの同伴が必要なゴルフ場のアレンジの場合は、知合い又は知合いの知合いにメンバーがいないかを尋ね、プレイをアレンジしたことも何度かありました。
 スコットランドではゴルフが簡単に出来るので多いにプレイを楽しみました。7月頃は事務所の仕事が終わる午後6時からでも1ランド出来ましたし、冬は凍ったコースの中でもラウンドしボールが転がり、思いもよらぬところに着地するのを確認しながらでもプレーし、余りひどい時には途中で止めたり。という具合でした。日本のゴルフコースではハーフ9ホールで一度クラブハウスに戻るのが普通ですが、St. Andrewsでは OUTの9ホールは行きっぱなし、INの9ホールで戻ってくるのでOUT・INの本来の意味を実感出来ました。

 地元の方がたの推薦を頂き私もゴルフクラブのメンバーに迎え入れられましたが、メンバーにとってゴルフクラブは正しく社交場としてのクラブでした。メンバーはほとんど毎週末、決まった時間にプレイをするので予約無しで知合い同士適当にスタートして行きます。  いつも来るメンバーが来ない時には「あれっ?Johnは病気かな?」「いいや、バカンスでSpainだよ。」という具合でした。キャディーは通常付けずに自分でクラブを担ぐか、手引き車に乗せて引っ張るか、と全てセルフでした。メンバーであれはゲストプレイヤーを招待出来るのは日本と変わりませんが、私の所属したクラブでは、ゲストのプレイ費は何と1ポンドでした。今のレートでしたら125円です。私もメンバーになる前に何度かご招待を受け恐縮していたのですが、その金額を知った時には、変に安堵したのを覚えています。
 18ホール全部を廻らずに、「このホールが家に近いから」と途中で帰る人もいました。私がメンバーに迎えられた最初のプレー終了時にはクラブハウスにいたメンバーから「歓迎の1杯だ。俺の奢りだ。」とウイスキーを1杯ご馳走になり、その後約20名のメンバーから「今度は俺の奢りだ。」と次々に同様の歓迎を受け、断るのは失礼だと思い杯を重ねました。結果、何とか帰宅は出来ましたが、どのルートを運転して帰ったのか覚えていない状態で交通量の少ない当時で本当に良かったです。その当時、飲酒運転は厳しくなかったので事故さえ起こさなければ大丈夫との感覚でした。
 その当時 英国は不況でしたが日本は景気が良く、リゾートホテル付きのゴルフ場は日本の企業が買収しだしていました。その内の1つ、ターンベリーでの思い出の写真を持参しました。父の右隣がリー・トレビノ、左端 私の右隣がサンディー・ライル です。

 次に、レストランAYEに関してですが、こちらは本当に大変でした。1984年の4月、Jascot Travelの開設と共に、レストランの物件探しのお手伝いをしていました。物件探しは自分達の足で探し廻ることにしました。
 物件の条件は、「日本人旅行者にも便利なところ。」でしたので、Princess Streetからさほど遠くないNew Townの一角にて探し廻りました。景気が悪く空き物件はかなりありましたが、空き物件の中には良き場所がないので、目星を付けた物件を直接交渉で所有者から賃貸しようと計画しました。が多くの物件が金融会社または年金機構の所有で、Londonの本社に何度も訪れ、計画書等の資料と共に説明を繰り返しましたが、「飲食店に賃貸すると その物件の価値が下がる」との理由でどうしても賃貸契約は出来ませんでした。約2ヶ月が無駄に過ぎ去ろうとしていましたので、物件探しの方法を変更し、既存のレストランの買収に切り替えました。
 その際には地元で「飲食店に精通している弁護士」を紹介してもらい、スイスレストランの買収に成功しました。買収価格交渉の際に Goodwill との項目があり、最初は何のことか理解出来なかったのを覚えています。所謂「のれん代」と分かりましたが、その割合が大きいのには驚かされましたが、オーナーへの損害補償料だったわけです。レストランの場所は 80 Queen Street。 Princess Streetからは, George Streetを挟んで2本目。 West Endの角地と最高の立地条件でした。

 その後は急ピッチで開店へ向けての準備に追われました。この頃から、レストランの責任者は当初予定していた方ではなく、私がレストランの開店・運営の責任者となってしまいました。当時私は28歳で何も分からない状態での飲食店の開店、それも海外での開店でしたので全ての分野でそれぞれの専門職の方々にお世話になり準備は進められました。取得した物件は1階と地下がありましたので、1階には寿司カウンター:天ぷらカウンター、和室:一般席と厨房を配置そして、地下1階は鉄板カウンターと一般席、保管庫を配置することになりました。準備の主だったところでは、レストランの内装工事、従業員の雇用、各種必要免許の取得、従業員用社宅の確保そして日本人スタッフの労働許可証の取得等です。

 開店するレストランを通じて「日本の食文化をScotlandに伝える。」ことが目的でしたので、1階部分はその当時Londonにあるどの日本レストランよりも純和風に仕上げる為にと全ての内装材を日本から取り寄せ工事は行われました。工事の見積もりに関して、日本でしたら工事業者と施主の間で直接その額を確認し合いますが、Scotlandでは、工事の見積もりが妥当であるかどうかを検査する サーベィヤーと言う職種の存在が中間に入ることを知ったのもこの時です。作業は日本人大工とスコットランド人の共同作業でしたが、「のこぎり」が両国で異なることにお互いの職人が愉快に笑っていたのを思い出します。日本の鋸は引きますが、スコットランドは押します。
 従業員は現地採用はキャッシャーの女性とホールの男性の2名。 その他の20名は日本人でした。 日本人採用は日本で行われましたが、海外での就労経験のある者は4名。
日本人スタッフ用 労働許可証の取得が非常に大変でした。その当時 Londonにあった丸紅等の商社でさえ、20名の日本人スタッフへの労働許可証は取得していなかったと聞いています。当時、労働許可証を取得出来るのは20名~30名の現地採用に対して日本人は1名のみ。現地採用者が持っていない資格所持者又は役職が必要不可欠でした。そのような条件下で労働許可証20名分を全て取得出来たのは担当弁護士の力量としか言いようがありません。労働許可証取得の朗報が届いた時には、安堵の思いから涙が溢れ出しました。あの時の感情は今も忘れる事はありません。

 仕入れに関しては魚介類が大変でした。スコットランドも海が近いので新鮮な魚が簡単に手に入るだろうと考えていました。が、現地の新鮮な魚は日本料理には使用できない状態で、英語でのFRESHでは駄目でALIVEで漸く質が確保されるようでした。ScotlandにはAliveではなくFreshな魚しかなくScotlandの魚卸売市場からの仕入れは断念しました。
その当時 Scotlandで収穫された魚はまずはLondonの市場に送られ、その後,再度 Scotlandに送られてきていました。Londonの日本レストランの多くもフランスの業者から仕入れているとのことでしたので、我々もパリの業者から仕入れる事にしました。その中でマグロの保管がまた問題になりました。マイナス数十度がマグロの保管には適しているというのですが、その様な冷蔵・冷凍庫がなく、結局 医療用の冷凍庫を手配しました。
レストラン開店後は漁師が直接 店に売り込みに来るようになり「とにかく何でも捕れたものを持ってくるように」と伝えていました。ある日、その中に「うに」を発見。かなり小ぶりでしたが味は良く、「使える」と料理人が判断。その時の漁師の驚きの顔は忘れられません。 Scotlandで「うに」は子供達がサッカーボール代わりに遊ぶもので、「日本人はこれを食べるのか?」という驚きです。和食のお品書きの内容も、日本から手配された器類の知識もなく、英語に訳すのに悪戦苦闘したのも今となっては懐かしい思い出です。

 レストランは 愛 と名付けられ、アルファベット表記は AYE と決定しました。愛の漢字は日本に於いてもOld Parr社の関連飲食店に付けられていました。A・Y・E はスコットランド独特の表記であり「はい」と言う意味合いと知り決定されました。
 1985年5月にレストラン愛は準備完了し、2日に亘るレセプションの後、正式に開店出来ました。Edinburghでの純日本レストランAYEの開店は多くのマスコミに紹介され、その評判は瞬く間に広がりました。残念だったのは料理の値段が、現地の一般の方々にとり非常に高くまた量が少な過ぎて満腹感がない、との酷評を頂いたりもしました。
 が、その年刊行のGood Food Guide誌で「ヨーロッパ一の日本レストラン」の折り紙を付けられ、ミッッシェラン・ガイドブックでもまだ1年もたたないのに、刊末で素晴らしい日本レストランが出来たと紹介されていたのを覚えています。因みに他のヨーロッパ内の日本レストランはどこも掲載されていませんでした。

 本日はScottish グルメガイド「A Flavour of Edinburgh」のみ手元に残っていましたので持参致しました。AYEはFOOD、AMBIENCE、SERVICE,、Value for Money 全ての分野で5点満点中5点の最高評価を頂きました。満点のレストランは、紹介されています98のレストラン中、AYEともう1店FifeにありましたPEAT INNの2ヶ所のみでした。

 日本語での営業時間・休日の紹介の後に「ジーンズでのご来店はご遠慮ください。」「ご夕食時にはネクタイ・ジャケットの御着用をお願い致します。」と明記していますが、その理由は現地の方々は特別な日におめかしをしてAYEにご来店下さっていましたので、日本の方々にも 定食屋に行くような服装ではなく 適正な服装をお願いしようとの判断からでした。その決定直後に元ラグビー日本代表で有名な平尾誠二さんが他のラガーと軽装でご来店され、事情をご説明し地下の目立たない席にご案内しなければならなかった時には、判断を誤ったのでは? との思いにかられました。それ以来、ドレスコードをご存知でなくご来店の方用に、ジャケットとDunhill のネクタイを数種類ご用意をして対応する事にしました。このサービスはご来店の日本の皆様にもご理解を頂き、Dunhillにも喜んで頂けました。

 レストランAYEとJascot Travelを通じて多くの現地の方々とお知り合いになることが出来ました。各ホテルの支配人、Assistant Manager、Head Porter等とは懇意にさせて頂きました。彼らは、レストランAYEはライバルではなく、宿泊客のレストランの選択肢が増えると非常に好意的に受け入れて下さいました。もちろん毎年ご招待を致しました。逆にご招待にあずかることもありました。グレンイーグルスホテルがレジャー施設を完備した際にはご招待を受け、生まれて一度だけのクレー射撃を経験させてもらいました。現地のパブのオーナーともOld Parrスタッフとの関係のお陰で、非常に友好的でした。
 AYEのスタッフがお世話になった病院・警察。総合病院は日本人にも無料だったのには助かりました。今25歳になる娘もEdinburghのWestern General Hospitalにて出産でした。その際、鉄分不足の補給にと妊産婦にギネス・ビールが配られたのには驚かされました。
 警察はAYE日本人スタッフが地元の若者と喧嘩をした際、また盗難にあった際に呼び出されたりもしました。自宅でScotch Whiskyを飲みながら寛いでいるときに呼び出され、酒臭い状態で警察に行っても寛容に対応してもらえました。その他、日本人の事故の際にも手助けが必要だと、呼び出されたこともありました。

 Edinburgh空港のBAスタッフには本当にお世話になりました。日本への帰国便の荷物をEdinburgh空港にてチェックインする際に、規定重量オーバーであっても追加料金はサービスしてもらっていました。もちろんレストランAYEにはご招待していました。もう時効ですので・・・。 国際線担当のImmigration Officerからの呼び出しも1度や2度ではありません。でも皆さん本当に好意的でした。
 Edinburgh Festivalの開催期間中、レストランAYEには日本ではお目にかかれない多くの著名人もご来店下さいました。指揮者の小沢征邇さんは公演後毎晩数人の演奏者とともにご来店下さり、私はクラッシック音楽が大好きですので、「頑張ってて良かった!」との気持ちになったことを覚えています。女将・寿司職人と共に出前の注文を受けたこともありました。St.Andrewでのゴルフ大会での懇親会。当時の新日鉄ラグビーチームの遠征レセプション。Glasgowでのイベントにて寿司・和食コーナーにて和食を紹介したのも良き思い出です。もちろん中島・尾崎らの日本人ゴルファーにも喜んで頂けました。
 当時、Scotlandに進出していた日本の企業はNEC、三菱電機、信越半導体、大和スポーツくらいで、日本人会は100名程で組織されていました。我々の日本人スタッフも仲間に入れて頂けゴルフ会等にも参加させて頂きました。本日はEdinburgh Festivalのパレードに御神輿を担ぎ、花笠音頭を披露した際の写真を持参致しました。このパレードはレストランAYEが中心になって行いましたが日本人会の方々にもご参加頂きました。

スコットランドのグルメガイドで4部門に満点評価

 1987年秋からは、それまで以上に日本との連絡回数が増えました。1986年は英国で、金融界ビッグバンが行われた年です。その影響からか、その後 企業買収が頻繁になり、Old Parrブランドを所有していましたDCLも規模ではDCLよりも小さなGUINESS社に買収されてしまいました。その結果、日本のOld Parr 株式会社にも代理店契約を解消する旨の告知書が届くという大事態に見舞われてしまいます。私は現地 スコットランドの弁護士と共に情報を収集したり、日本の本社からの問い合わせ、指示への対応に忙殺されました。 それまでも レストランAYEは月曜日のみが休みで、オフィースは日曜日が休みと、私は休む日がありませんでした。その頃からは9時間の時差の関係で東京の朝9時は Edinburghでは夜の12時ですので、深夜にず~~と日本からの連絡が届きます。東京時間の金曜日夜の指示連絡が最悪で、東京からは「じゃ~ 週明けで良いから調べて報告下さい。」と余裕をもって言われても、その時間はEdinburghの午前中。金曜日なので下手をすれば午後からは相手がつかまらないことも予想され、2~3時間が勝負という状況でした。
今もう一度 同じようにやれ!と言われても肉体的にも無理です。

 結局 企業買収の流れには逆らえず1988年3月に レストランAYEを売却をし、Jascot Travelは現地責任者に任せて私は日本へ帰国しました。その後もJascot Travelは存続していましたので父は他界する1993年3月までブラックプールでのダンス大会を楽しみに英国訪問は続けていました。私も Old ParrのStandard Whisky Claymore BrandがDCLから他社へ売却された関係でScotlandとのビジネスは続いていました。現在はそのClaymore も他社の扱いブランドとなり、ロイヤルリカー株式会社としてのScotch Whiskyの取扱はありません。

以上で「父 高橋愛光とEdinburgh」そして,それに伴う「私とEdinburgh」の話を終わらせて頂きます。ご清聴 誠に有難うございました。


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